明治43年(1910)、宮城県仙台市に生まれる。本名延泰。中学時代に小原流に傾倒、光雲二世家元に弟子入りを懇請し、昭和5年(1930)、正式に入門を許される。以後、家元内弟子として修行に励む。内弟子仲間に金森光堂、尾田光秋がある。
昭和13年、二世家元逝去により仙台に戻り、小原流いけばな教授を開始、翌14年には初の個展を仙台三越で開く。15年には社中「千種会(ちぐさかい)」を結成して第1回社中展を仙台三越で開き、以後、数多く社中展を開催。
昭和25年、文部省主催第1回日本華道展に出品、これを機に東京に移住、主婦之友社の家元教室の助教となる。28年には渋谷東横百貨店のいけばな美術展に出品、前衛挿花の勃興とともに本格的に作家活動を始め、小原流の代表的な作家と目されるに至る。
昭和29年に千種会を解散して「玄樹社」を創立。昭和38年、玄樹社展「風土を詩う」を日本橋白木屋(後の東急百貨店)で開催、流展を凌ぐ規模と大作の数々によって、一挙に諸流間で重きを置かれる存在となった。翌39年、三世豊雲家元と共にいけばなインターナショナル世界大会出席のため渡米。昭和41年に外務省派遣の文化使節として当時のソ連および東欧4か国を歴訪。昭和46年、還暦記念の作品集『五島泰雲作品集』を出版。53年、五島泰雲個展を東京小原流会館の1~3階全てを使って開催。
流に尽くした功績は大きく、昭和31年財団法人小原会館常任理事、38年財団法人小原流常務理事、更に研究院教授、後に芸術研究院副院長となる。自らの社中玄樹社から優秀な教授者・指導者・作家を多く世に出している。流外でも日本いけばな芸術協会理事、いけばな協会理事を務め、海外訪問も数次に及ぶ。昭和55年(1980)に逝去、流は小原流本部葬をもってその功に報いた。享年70。
復元を終えて
この企画で五島泰雲、父の作品集を改めて探求し、旅先の山形で「葦」、父との思い出の地で「松」との出合いは、必然に五島の写景盛花を思い起こしました。この取り合わせに、父独自の木彫りの図案を画家の姪により絵画として再現し、写景盛花と絵画を一つの作品に完成させました。時代物のたらいの中にボヘミアングラスの花器を合わせる構成は五島流である。生けこみ当日に手にした松は、ゴツ々した溶岩の上で、潮風に晒されたはずなのに、鮮やかな緑で上々な出来栄えを見せている。
山室和嘉子