明治30年(1897)、平繁治・一鶯の次女として宮城県仙台市に生まれる。本名ちよ江。母・一鶯について花道を始める。大正5年(1916)、東京に移住、大正13年東京国風会創立に当たり幹部となり、昭和12年(1937)に副支部長に就任。昭和16年、「工藤光園・平光波二人展」を開催し優れた技量を発揮した。
昭和20年、母を失い社中「一葉会」会長を継ぐ。21年に勅使河原蒼風、池田理英らと「アーニーパイル展」を開催し、進駐軍将校夫人たちへのいけばなレッスン、海外への小原流拡大の布石となった。昭和24年より宮中の呉竹寮で内親王方へいけばな教授を始める。昭和31年に財団法人小原会館常任理事に就任。33年のイケバナ・インターナショナル創立時に会員となり、35年には単身渡米して小原流普及に活躍。帰国後、銀座松坂屋で「平光波指導五十周年記念花展」を開催。
昭和36年、東京支部長に就任、38年の小原流法人化に際し理事就任。昭和41年、財団法人日本いけばな芸術協会創立時に評議員。昭和47年の東京支部創立50周年記念式典で小原夏樹四世家元(当時・副家元)を支部長に推戴して勇退、支部参与となる。
昭和49年、小原流専門認定教授会発足時に初代会長に任ぜられる。同年、勲五等瑞宝章を受勲。翌50年の創流80周年記念式典には小原流功労賞を授けられた。昭和54年には財団法人日本いけばな芸術協会より高松宮妃いけばな褒賞杯を授与。昭和55年、花道生活70年の集大成として、個展「辿り来りて」を新宿・京王百貨店で開催、花道界の称賛を浴びた。同57年(1982)、東京支部60周年記念式典に際し家元より特別感謝状を贈られたが、直後に病を得て同年8月に天に召される。享年85。
復元を終えて
「木には望みがある。たとえ切られてもまた芽を出し、その若枝は絶えることがない。たとえその根が地の中に老い、その幹が土の中に枯れてもなお水の潤いにあえば芽を吹き、若木のように枝を出す。」(ヨブ記14章7-12)
光波先生が愛された聖書の言葉です。
先生は水の潤いを求め、野山の自然の中に採取し、花と対峙され作品とされておられました。
復元にあたり、先日私も水の潤いと葦の里を尋ねて足を運んでまいりましたが、”辿り来たりて”とは程遠く。ー温故知新ー
森重幽花