昭和18年(1943)、東京都に生まれる。自宅の近くへ出稽古に来ていた工藤光園の紹介を受け、昭和31年小原流入門、工藤和彦に師事。昭和40年、第5回いけばな日本展に出品。この時のエピソードとして、工藤和彦は次のように述懐している。「彼女だけが私の指導をうけることなく作品制作に取り組んでいた。(中略)『これでは佳作にも入らない』と指摘しても、『私の思った通りにさせて下さい』という答が返ってきた。『佳作に入らなくてもいいのだね』と重ねて問い返すと『かまいません』という答だった。(中略)『この女(ひと)はものになる』と思ったのはそのときからである」(『古作厚子展 冬の庭』図録 1998年より)。以降、気鋭の造形作家として、流内外の展覧会へ意欲的に出品。
昭和53年、現代工芸展に入選。昭和60年、銀座のカネボウウインドーディスプレイデザイン年賞1985・奨励賞。
昭和58年、メルボルン大学グリフォンギャラリーにて、守下篁といけばな展。平成7年カナダ・トロントで「Today’s Japan Sorrow of a petal Contemporary Ikebana」に出品。平成10年、個展「冬の庭」(小原流会館)、平成11年、個展「風の回廊」(スパイラルガーデン)。
昭和63年より小原流研究院助教授、その後教授、相談役として後進の指導に尽くした。流内公募展「マイ・イケバナ」の審査を長く務め、いけばな作家の視点による審査・講評は、造形を志すものの指針となった。平成29年10月に開催された東京支部創立95周年花展でも精力的に指導に当たったが、直後に体調を崩し、平成30年1月逝去。享年74。
復元を終えて
一連のトイレットペーパーの作品を最初に発表したのは、1984年の研美展でした。
居並ぶ兄弟子姉弟子の中、会場入口のメインの花席に抜擢れた時のことです。
陶器のようにも見えたその卜イレットペーパーの作品は、一言でいうと「度肝を抜いた」。
トイレットペーパーなんて!とお怒りのおば様方もいらっしゃいましたが、、圧倒的な作品となり、ディスプレイデザイナー、美術評論家の目にとまり、銀座カネボウのウィンドウをはじめ、平成7年「Today’s Japan Sorrow of a petal Contemporary Ikebana」カナダ・トロントへ行き、。平成11年、個展「風の回廊」(スパイラルガーデン)のメイン作品となりました。
38年の月日は、トイレットペーパーの質を著しく変え、やわらかく薄くなり、質感の再現に苦慮いたしました。
古作厚子は、指導にも創作にも迷いのない人でした。
少なくとも迷いを見せない。本人の中で、どれだけの葛藤があったとしても、教えを乞うものに、制作をアシストする者には、目ざす方向、到達点をしっかりと指し示してくださいました。
工藤亜美