昭和24年(1949)、三世小原豊雲家元の長男として神戸に生まれる。
昭和44年、三世家元より次期家元に指名。昭和47年、甲南大学経済学部卒業。東京支部創立50周年記念式典で、平光波支部長より推挙を受け、小原流東京支部長に就任。東京支部花展に、支部長として初出品。
昭和50年、小原流創流80周年記念式典で、小原流副家元に就任。昭和56年、黒田規容子と結婚。昭和61年、財団法人小原流理事長に就任。昭和62年、小原流研究院院長に就任。
昭和52年、モナコ国際花のフェスティバルへいけばな文化親善使節団団長として派遣される。
昭和53年、「小原豊雲・夏樹二人展 いけばな いま そして」を東京・大阪・福岡・仙台・札幌の5会場で順次開催。昭和57年、58年、中国西域で作品集を制作。昭和59年、横浜髙島屋で個展「小原夏樹展」開催。木肌を露わにした大作群を出品した。
昭和54年、第1回小原夏樹主催公募展「マイ・イケバナ」を東京・小原流会館で開催。主催者・審査員・出品作家として関わり、現代いけばなの作家を育てた。昭和59年、第1回小原夏樹主催夏期研修会を福島県・万葉の庭で開催。
昭和60年、「花舞」を発表。平成2年「花意匠」発表。現代の生活空間にふさわしい新しい盛花を提案した。平成2年、花の万博「EXPO’90」に出品。大モニュメント「ミトスの花園」制作。平成4年逝去。享年42。三世家元の没後に四世家元を追贈。
作品集に『絲綢華路』(昭和58年、主婦の友社)
復元を終えて
復元をしたのは、「小原流挿花」3月号に掲載された1988年の作品です。
私たち小原流の固定概念として、日蔭を使うというのは、写景盛花である、というものがあると思います。それなのに、この作品では、あえて、グロリオサ、ポリポディウム、スターチスといった、写景盛花とはなりにくい取合せをした上で、そこに日蔭を下草で用いています。そういう意味で、非常に挑戦的な試みであることに惹かれ、実際にいけてみると、どうなのだろう、ぜひやってみたい、と思ったのです。
いけてみたところ、四世のオリジナルよりも、かなり量感が強く、紫の色調をマッシブに捉えることになりました。元の作品は四世の好きだったグロリオサが主役でしたが、私は、白と紫、緑という配色が気に入って、紫が主役となりました。
それはおそらく、自分であれば、ホワイトレースフラワーにブルーファンタジーというエアリーな花を2種入れるということは、絶対にしないし、考えもしないので、だからこそやってみたい、という気持ちが強くなり、結果として、それらが主役となったのではないかと思います。
小原宏貴