花人列伝 小原豊雲

明治41年(1908)、二世家元小原光雲の長男として大阪に生まれる。本名、豊。大正2年より、父光雲の指導のもとにいけばなを習い始める。大正12年、函館支部展覧会に初出品し、この時より豊雲と号す。昭和2年、大阪府立園芸高等学校を卒業。 

 昭和4年、東京国風会幹事長に就任。昭和13年、二世光雲の逝去により、三世家元を継承。昭和14年、高嶌貞子と結婚。同年、「南洋情趣挿花展」開催。「南洋土俗芸術と花との出会い」をテーマにした画期的な展覧会で、その後の作品の方向性を決定づけるものになった。

 昭和20年9月、終戦直後の神戸大丸で、ショーウィンドーに井上覚造の絵とともに花を飾る「窓花展」を開催。11月、東京・主婦の友社で「勅使河原蒼風・小原豊雲二人展」。12月、中山文甫、桑原専溪、井上覚造、宇野三吾とともに、花・絵画・器の「三芸展」。この頃から、いけばなの新しい可能性を追求し、素材や表現方法において大胆な挑戦が試みられ、「前衛いけばな」を代表する存在となっていく。昭和26年、勅使河原蒼風・中山文甫と「いけばな三巨匠展」を大阪・東京で開催。

 昭和31年、イケバナ・インターナショナルが設立され顧問に就任。昭和33年、ブリュッセル万国博へ文化使節として派遣される。同年7月、ローマ近代美術館で「小原豊雲展」を開催。昭和40年、ブラジルのリオデジャネイロ400年祭に文化使節として派遣される。同年メキシコシティ国立芸術院で小原豊雲個展を開催。

 昭和35年、「琳派調いけばな」「文人調いけばな」を発表。日本の風土や伝統的な美意識に根差したいけばなの見直しを図った。

 昭和36年、37年、「南方土俗をいける 小原豊雲展」。昭和46年、「インド・タントラアート 花の幻覚 小原豊雲展」。民俗美術や原始宗教に発想を得た幻想的な作風を確立した。昭和62年、家元継承50周年記念家元個展「幻想庭園・小原豊雲展」。平成7年逝去。享年86。

 代表的な作品集に、『日本の花』(昭和42年、主婦の友社)、『小原豊雲』(昭和44年、講談社インターナショナル)、『挿花百規』(昭和52年、主婦の友社)、『花曼荼羅』(昭和61年、主婦の友社)。

復元を終えて

この作品は、1996年に小原豊雲遺作集『幻花巡歴』に掲載された<幻想山嶺>を復元しています。

作品写真を見てまず思ったのは、三世ならではの自分の世界観を完全に表したもの、ということです。ここに使われている木製のオブジェは、大きさは異なりますが、実際に当時の撮影に使われたものです。

復元にあたっては、この作品の主役は、色彩なのか、形なのか。三世の発想の順序を知りたいと思いました。全体のイメージがまずあって花材を選んだのか、逆に、気に入った花材があって、そこから発想したのか。

アバンギャルドなところ、エキゾチックな感じ、という点では、三世らしさがとてもよく感じられるのですが、一方、苔つつじの苔の部分を高く上げて、緑の部分を下に置いたりというところなどは、出生感をしっかり出しています。また枝の入り方など、ある意味、主、副、客とでもいうべき小原流の基本骨格に則っているところがあり、従来の方法論を、新たな材料で解釈して、まったく違うものを生み出した、ということが、再現していてよく分かりました。

三世は、独自の感性の人というイメージが強かったと思うのですが、こうしていけてみると、感性だけで通しているのではなく、これまでの小原流のプリンシパルを押さえてやっているのだな、と。

材料の独自性、取合せの世界観は強いから、ぱっと見た印象は、これまでにないものに振り切れている感じがしますが、意外と、小原流の方法論との接点を探っている感じ、その痕跡を見てとれたことが、面白く思いました。

小原宏貴

小原豊雲 小原夏樹 工藤光洲

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工藤和彦 東海林寿男 佃季尾子 古作厚子

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